父の思い出 [家族]

「寺内貫太郎一家」というドラマが昔ありました。
太った作曲家の小林亜星さんが父親役で、それがとんでもない独裁者。
怒ると、卓袱台返し怒鳴る殴る蹴る・・・今だったら、DVと呼ばれ、
教育委員会や母の会から、放映停止を申し立てられるようなドラマでした。

うちの父は、あれを地で行く人でした。
すぐにカッとして、寺内貫太郎状態に陥ります。
(っていうか、父の方が先でしたけどね)

母だろうが娘だろうが、怒鳴る殴る蹴る((+_+))

手近にあるものを投げるのも日常茶飯事で、おでこにぶつかったり、
背後のガラスが割れたり、いつもひどい目にあっていました。

弟が生まれたころから、徐々に治まってはいたものの、
その嫌な思い出から、父親は煙たい存在でした。

表向きは、歯医者だった父は地元の名士でしたし、
見た目も悪くなかったので、なんとなく自慢の父でした。

そのせいか、言葉の暴力をふるう母よりも、
直情径行型の父の方がマシな感じ(低レベルな比較!)で、
私も妹も、少しファザコン気味だった気がします。


そんな父は、お酒も毎晩浴びるように飲むしチェーンスモーカーだったので、
当然の帰結で脳梗塞になり、救急車で搬送され入院しました。

父は地元の大きな病院に66日間入院しましたが、
母と、仕事をしていた私と妹とが交代で夜も付き添いました。

病院に泊まらない日は、前の大きな道からバスに乗って帰るのが常でしたが、
数日目に、ふと病室が表側だったことに気づき振り返ってみました。

すると、6階の端の病室から、
窓辺にあるベッドの上で父が手を振っているのが見えました。

わがままで自分勝手で乱暴で、そんなことをする人ではなかったので、
不意を突かれて、胸が詰まりました。
病気をして、気が弱くなったのでしょう。
応えないのも冷たいかと思い、私も手を振りました。

それからは、家に帰るときにはバス停から6階を見上げて、
父と手を振り合うのがルーティンになりました。

30歳を過ぎてから、父とあんな交流をするとは思いませんでした。

片側にマヒが残った父は、それから20年近く寝ついて亡くなりましたが、
最後までボケもせず、怒鳴る殴る蹴るもせずに穏やかに逝きました。

小さい頃は可愛がってもらったのに、いつのころからか暴君の印象が上書きされて、
病気をしなかったら、父の思い出は嫌なままだったことでしょう。

人生、何が幸いするか分かりません。。。
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