風信子荘(ヒヤシンスハウス) [ふるさと]
さいたま市の別所沼公園の中に「ヒヤシンスハウス」というのがあります。
立原道造さんという詩人が、自分の理想の住まいとして考えたモノです。
同時に建築家でもあった彼は、しかしその家に住むことはありませんでした。
いいえ、それを作るまでにも至りませんでした。
24歳で夭折したからです。
結核でした。
中原中也賞を受賞して、詩人としても充実し始めたころのことでした。
浦和の別所沼周辺は、画家や詩人がたくさん住んでいました。
立原道造さんも、友人で詩人の神保光太郎さんとの交流で、
別所沼が気に入り、いずれはここに理想の家を建てようと、
設計図を造り、構想を膨らませていました。
ひいては、その住所を刷り込んだ名刺まで作り、
親しい人に配っていたそうです。
でも、立原道造さんは志半ばにして喀血し、急逝してしまいました。
さて、それから66年の月日が流れ、
さいたま市が政令指定都市になったタイミングで、
別所沼公園が県からさいたま市に移管されたことで、
その夢を実現する事業が立上げられました。
こうして2004年(平成16年)11月に「ヒヤシンスハウス」は完成しました。
ここについては、ご近所ですし、詩人が構想した家ということで興味もありました。
何度か足を運んでいますので、思い入れがあり・・・続きはまた明日♪
立原道造さんという詩人が、自分の理想の住まいとして考えたモノです。
同時に建築家でもあった彼は、しかしその家に住むことはありませんでした。
いいえ、それを作るまでにも至りませんでした。
24歳で夭折したからです。
結核でした。
中原中也賞を受賞して、詩人としても充実し始めたころのことでした。
浦和の別所沼周辺は、画家や詩人がたくさん住んでいました。
立原道造さんも、友人で詩人の神保光太郎さんとの交流で、
別所沼が気に入り、いずれはここに理想の家を建てようと、
設計図を造り、構想を膨らませていました。
ひいては、その住所を刷り込んだ名刺まで作り、
親しい人に配っていたそうです。
でも、立原道造さんは志半ばにして喀血し、急逝してしまいました。
さて、それから66年の月日が流れ、
さいたま市が政令指定都市になったタイミングで、
別所沼公園が県からさいたま市に移管されたことで、
その夢を実現する事業が立上げられました。
こうして2004年(平成16年)11月に「ヒヤシンスハウス」は完成しました。
ここについては、ご近所ですし、詩人が構想した家ということで興味もありました。
何度か足を運んでいますので、思い入れがあり・・・続きはまた明日♪
2018-02-06 01:10
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コメント(2)
建築された当時、縁あって何度か足を運びました。
企画された方々はいろいろな規制の中、大変苦労されたようです。
賛同者が多く集まり実現しました。
by 後輩の爺 (2018-02-06 10:28)
☆ 後輩の爺さん
後輩の爺さんもたずさわっていらっしゃったのですか!
今でも、ヒヤシンスハウス友の会の方々が運営しているようですね。
さすが、素敵な建物です。
by まほ (2018-02-07 01:11)